独り言の雑文

小林紀生

2022年04月16日 00:27



10代後半は悩みの多い時期だったものです。もちろん、この時期は誰もが悩み苦しむことが多いと思います。ただ私の場合は非常に悩み、深く悩み、しかも誰にも相談できないという状態で、一人悶々と自分と向き合うということをしていたものです。

思い詰めるあまり、死を考えることもあって、とにもかくにも暗い時代だったものです。
 
ところが、それが一気に解決することがありましたが、しかし、誰かにも相談できない、相談しても話しをきちんときいてくれないというのは、やっぱり、これ自体がつらくなってしまいます。

もっとも、人生には、どうしようもなく逆境に陥ってしまう、そんな時期があるのかもしれませんね。いえ、あると思います。でも、そういう時期に、適切に対処できるのが望ましいですね。いたずらに悩みや苦しみを深めることがないようにあるのが望ましいと思います。


そんな自分の体験がありますので、独りで悩み苦しんでいる人の姿を見ると、昔の自分を思い出して、重ねてしまって、ちょっと放っておけない気持ちになってしまいます。

で、どうすれば苦しみから解放されるのかなあと考えたりもします。

いえいえ、私は、決して、慈悲の塊ではなく、いまだに好みや好き嫌いもあります。が、それでも悩んでいる方、自分をなんとかしたいと思っている方を見ますと、どうすれば良くなるのか?を考えることがよくあります。

あんまりこういうのを書くと、偽善者っぽく思われたり、ちょっとポーズを決めて気取った恰好に映るかもしれませんので、あんまり書きたくないんですけど^^;、でも、なんとかできないかあと思うことがわりとあります。
 
で、自分で感じること、体験してきたことを踏まえたりしながら、助言をすることもあります。で、それがツボって、その人が良くなっていくのはうれしいですね。

こういう性分は後天的に培われた性格といいますか、行動仕様だとは思いますが、その人が良くなっていくと、「ああ、楽になってよかったねー」とか「以前に比べてよくなってよかったねー」とシンプルに思います。
 

人が変わる方法やアプローチは、いくつかあると思います。で、私は、私なりの経験や所感から、いろいろとアドバイスをしていますが、中には、難しいなあと感じて、途中で断念するときもあります。

が、非常に深いところからの変化変容が起きると、本当の意味で「変わった」と周囲からも言われるようになります。

そうした根源的なレベルからの変化変容をうながす方法といいますか、実践には非常に興味があって、こんな追求を40年近く行い、自分も試しますし、他人にもお勧めして、それなりに成果も出してきているかなと思います。

で、成果なり結果が出てくると、これまたうれしいですね。特に、アドバイスした方の上に、それが起きると、うれしいもんです。


で、10年以上続けてきている瞑想会の開催も、実は似たような動機があります。

気づきの瞑想を通して、多くの方が、やすらぎ、心の平安を感じることができれば、いいですね。そんな機会の提供が瞑想会だと思っています。

コロナになってから、瞑想会の開催もしにくくなっていますが、また開催したいですね。

 
ところで、ねむの木学園を創った宮城まりこさんが「やさしいことは強いことなの」と言っていたようです。

宮城さんは、もしかすると障害者への慰めとして使っていたのではないかと思うところもあり、その真意はわかりませんが、私は、この言葉は、額面通りだと思っています。
 
「やさしいことは強い」。これに通じるのが「祈り」なんですね。実践の中でも「祈り」は意外と大事だと思っています。「慈しみの瞑想」という言い方もできます。

ブッダは「慈しみは極め尽くすことができない」と言われていました。祈り・慈しみには、無限の広がりと可能性があるのかもしれませんね。
 
祈り・慈しみ。その心も行動も軸になると、人も社会も素敵になるかなあと思います。

と、ちょっと独り言めいたことを書いてみました^^

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