「世の中をよくしたい」「何か社会に貢献したい」という気持ちから、ボランティア活動や慈善活動行う人は少なからずいますね。
かくいうワタクシもその部類かもしれません。
が、こうした「対社会的」「対人」的な活動をする場合、注意しなければならないことがあると思っています。
それは何かといえば
自分を見つめる
ということですね。
・自己観察です。
・内観。
・心を感じること。
これは欠かせません。
ボランティアや慈善活動では、ともすると「外側」のみに気持ちが向いてしまって、自分の「内側(心の有り様など)」をおろそかにしてしまうことも起きがちです。
・世の中をよくしよう!
・何か貢献しよう
・今の日本を変えよう!
・グローバリズムの流れを変えよう!
・教育を変えよう!
・医療を変えよう!
などなど。
ボランティアや慈善活動のみならず、政治活動、教育活動などなど、社会を益しようとする活動ですね。
こうした活動は、社会に対する怒りや不満が原動力となって、大きなうねりを引き起こして、ときに国民をあげての社会運動になる場合もあります。
政治活動に顕著ですね。
で、怒りや不満、義憤がモチベーションとなって、社会が改まっていくことも実際にあります。
歴史を振り返れば、大衆の不満が爆発して、革命やターニングポイントも起きています。
しかし厳密にいえば、たとえ社会的に良いと言われる活動であっても、自分の心を感じながら行うことが大切だと思っています。
特に、こうした活動で、
・自分を成長させたい
・本当の意味で社会を良くしたい
・社会に貢献したい
と考えているならば、自分の心を感じる、見守るといった自己観察、内観の習慣は欠かせません。
というのも、行動、行為、考えの「動機」は大事だからですね。
仏教では、その「表向きの行為」よりも、「動機」を重視しています。
動機が「善い」のか「悪い」のか。
・動機の善い心ならば、善い行為。
・動機の悪い心ならば、悪い行為。
仏教では、シンプルに、このように分けています。
で、善い心とは、清らかな心をいいますね。
つまり、澄んだ心。
よこしまさがないこと。
素直な心。
で、ここで大事なことは、積極的に社会や人に対して「何かを行おうとする行為」が「善い行為」とは限らないということですね。
「心の有り様」が大事ということですね。
これは非常に素晴らしい慧眼です。
ブッダが言われる「善い行い」とは、「善い心」に基づくものであって、それは「心の様」「動機」。
偽善を排します。
ここが理解できるようになると、善い心であるならば、別段、ボランティアや慈善活動をしなくても、日常生活の中で善い行いができてしまいますよね。
ここに善行の妙味といいますか、ポイントもあると思っていますが、この理解は非常~に大事だと思っています。
偽善に陥りにくくなります。
「善いこと」といいながら、実は、有名になったりするなどの名声を求めていたり。
ただ単にお祭り騒ぎをしただけなのに、それを隠してしまったり。
あんまりこういう指摘をすると、窮屈になったり、変に神経質になってしまうおそれも出てきますので、ほどほぼの塩梅というか、てきとーなところで線引きして、ゆるっと行っていけば、大概のことはいいんじゃないかと思います^^;
が、何気ない日々の生活そのものが善い行いになっている。
これってすごく素敵なことですね。
で、これは一種の瞑想的な心でもありますね。
なので、菩提分法には「四正勤」という善行が含まれているんでしょうね。
で、瞑想を、何故重視するのかといえば、すがすがしい心、きよらかな心が生じてくるからですね。
で、この心を「善い心」といっていますね。
この「善い心」で行うことが「善い行い」と、仏教では説いています。
で、瞑想は、善行のトップ3に含まれているんですよね。既有業といっています。
仏教の洞察はすごい。
ですので、ボランティア、慈善活動、政治活動、教育活動に限らず、日々の生活などのあらゆることに言えますが、善い心であるために、日々の瞑想や実践があるんだと思います。
ちなみに、善い心って、シンプルに気持ちがいいんですね。
のびのびとしていますし。
瞑想を実習してきますと、ほとんどの方が、こうしたことを実感してくると思います。
瞑想にもいろいろとありますが、瞑想をして心がラクになる、軽くなる、喜びがあふれてくる、安心感がでてくる、なんかイイ感じ(・∀・)、といったのはおすすめですね。
で、これが何年も年十年も積み重なってきますと、次第に常態化にてきて、日常的にも、こうした気持ちでいられることが多くなってくると思います。
もちろん人間ですので、不機嫌になったり、イラっとしたり、ムカムカすることも起き得ますが、その頻度は減り、また回復するスピードは速くなりますね。
これが瞑想の素晴らしい点です。
一言でいえば「しあわせ」を感じることが多くなってくるということですね。
なので、日々の生活が善い心であるために、瞑想と実践を行うことが大事だなあと、つくづく思います。
で、ひるがえってボランティアや慈善活動。
あるいは真面目な政治活動。
こうした行動は「表向き」はいいんですが、その内実、つまり実践者の心の様はどうなの?という点が、意外と見過ごされがちかなあと思います。
社会や人という「外側」ばっかりに意識が向いてしまっている。
自分自身は、怒りや疑い、怨みに満ちていたり。
社会への怒りや不満は義憤となって、社会を改める強いモチベーションとなっていることも事実です。
しかし怒りや不満、疑いなどのマイナスの心を持ち続けていると、必ず病むようになっていきます。
活動している人同士での争い、衝突、パージが起きたり。
仲間同士の中で階級を設けたり。
だんだんと荒んだ活動になっていくことも。
こうなってしまっては本末転倒。
結局、自分の心を見つめることをしていないからです。
心を感じていない。
酷いケースになると、「良いことをしている」という思いが一種の免罪符のようになり、ぞんざいな態度や、雑な対応をしてしまうこともあります。
こうした雑な心に気づいて少し心が痛んでも、それを無視して「自分は良いことをしているんだ」と正当化してしまうことも。
つまり「言い訳」に使ってしまうことも。
もちろん、こうしたことは日常生活の中でも起きています。
が、ボランティアや慈善活動は、その活動自体がよいことなので、それに酔ってしまったり、「良いことをしているんだ」という思いから、心のチェックが甘くなることがむしろ起きやすいなあと感じています。
さらに酷いケースになると、ボランティアや慈善活動をすることで、ちゃっかり社会的スタンスを得ようとするケースもあります。
これなどは、まさに偽善的なんですが^^;、「善い行為」を正義の仮面をかぶったり、正義の看板を掲げることに使ってしまうという、悪心を隠して善人になろうとする手段に使ってしまうケースもあります。
昨今話題の統一協会は、まさにこうした善心を押し隠した末の偽善の最たる行為です。
巧妙な教義のロジックが、天然自然の善心への感度を鈍らせ、教義という観念で染め上げた心を善心と勘違いさせてしまう。
内観、自己観察、瞑想をともなわない行為の末の見本市のようなものです。
統一協会に典型的にみられるように、心の観察をおろそかにしていますと、せっかくの善い行いが、かえって悪い行為になってしまうこともあります。
ですので、ボランティアや慈善活動などでも、自分の心を感じる・見つめる感受力は大事になりますね。
感受力とは、瞑想の文脈でいえば「気づき」になりますが、「気づき」「観察力」が弱いと、雑な対応、ぞんざいな対応をしてしまうことも多々あるように思います。
結局、自己観察ですね。
内観。
心を感じること。
まさに心随念という心を見つめる瞑想ですね。
瞑想においては、もっとも大事なステップです。
意識し過ぎることなく、気づくということをすることなく、かといって虚無的になることなく、中立した状態で淡々と心を見守る、感じられるようになってきますと、いい塩梅で心随念になっていますね。
と、あんまり書きますと、お説教のように思われたり、正論ぶっこいているように聞こえますが^^;、適切な感受力はとても大事だなあと思っています。
で、適切な感受力が育まれてきますと、気功の世界、つまり気やエネルギーというのが感じられて、やがて開眼し、はっきりとしてくるようになります。
適切な感受力は、気づきともいいますが、人間の持つ天然自然な諸々を育みますね。
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