気付きの瞑想・マインドフルネス・あるがまま【浜松市】

心を癒し成長に役立つ「気付きの瞑想」。「気づきの瞑想」はテーラワーダ仏教に伝わる瞑想です。今ではマインドフルネスとして紹介されています。マインドフルネスのルーツが「気づきの瞑想」です。このブログでは、社会貢献を目的とした情報を発信し、静岡県浜松市で開催している瞑想会、勉強会のほか、瞑想、マインドフルネス、ボディワーク、気功、ヒーリングなど、ジャンルにとらわれず、役立つ情報を紹介しています。

自己観察の末に訪れた一瞥体験

自己観察の末に訪れた一瞥体験

ディープな話しが続いていますが、ご愛敬のほどをば。

◆自己観察をしていると一瞥体験が起きた
19才から本格的に自己を観察することを始めましたのですが暗夜に陥って大変なことになったものでした。そのことはこちらに書いた通りです。
https://healingmusic.hamazo.tv/e9167189.html

そんな悪戦苦闘の自己観察を続けていたある日のことです。まったく思いもよらぬことが起きまして。

1986年の年の瀬も押し迫る12月の末に、たまた書店に立ち寄って、立ち読みをしていたときです。
 
立ち読みをしていると、突然、バンという衝撃とともに自己が宇宙大に拡大するとといいますか、異次元的な感覚をともないながら自分が消えてしまうということが起きたものでした。いわゆる「私はない」です。無我といってもいいですね。

で、これがある種の衝撃をともないながら、起きたわけです。たった一瞬の出来事だったと思いますが、永遠を感じまして。
 
と同時に「神の愛」としか言いようのない、生まれて初めて体験する歓喜と高揚を伴った怒濤のエネルギーそのものがわき起こり、その怒濤の愛のエネルギーそのものになるということが起きたものでした。神(創造主)に見(まみ)える、神そのものとなったともいえます。

いわゆる「一瞥体験」です。そんな一瞥体験が不意に訪れまして。
 
で、16才から求めていた、神とは何か?善とは何か?慈悲とは何か?などの形而上の疑問が一気に氷解して、全身全霊でわかるようになったというのがありました。通常の知性を超えた理解です。
 
で、自己観察を始めてから鬱々とするようになってしまったのですが、この体験を境にしてV字回復をしていくようになりまして。

生命のエネルギーが、心を癒やすかのプロセスで、重度の病を抱えていた臨死体験者が病を回復させるプロセスに似ている気がします。

またこの体験でいくつかの変容が起きたりして、実に不思議な出来事だったものです。


◆真我体験、目覚め体験
一瞥体験は言葉で説明するのは大変難しく、人によってその表現も異なります。また通常は全く理解できませんし、荒唐無稽な妄想や精神の病気としてみなされる恐れもあります。
 
しかし一瞥体験は真我体験(本当の自分を知る体験)とも言われています。スピリチュアルでは「目覚め体験」「宇宙意識」といっています。キリスト教神秘主義では「照明」「見神体験」。

一瞬、真理を垣間見るともいわれていますが、実際は違います。体験に浅い深いがあって、深い体験になると、そのまま覚醒体験にもなります。体験がある程度深いと、その後、様々な変容も起きます。いわゆる神秘体験のようなことも起きます。
 
ちなみにポップなスピリチュアルでは「ワンネス体験」と言っていますが、アストラル次元での感覚喪失体験も含んでいますので、ポップ・スピリチュアルで言っていることはちょっと違うと思います。

で、一瞥体験が突如、自分の上にも起きたのですが、当時は、こうした知識や情報はまったく無かったため、一体何が起きたのか理解もできなかったものです。しかし何か究極的なものに開けた感覚があったものです。
 
キリスト教神秘主義では「神に見(まみ)える」といっていますが、この表現はズバリです。まさにその通り。


◆自らの体験に気づく
けれどもこのことが一瞥体験、見神体験、真我体験ということは、ずーっと後になってから知ります。実は6~7年前に初めて知ったものです。この体験が起きたのが21才の年。それから30年くらい経ってから一瞥体験だったということがわかったものでした。
 
きっかけはここのところ巷にあふれるスピリチュアル本ですね。エックハルト・トールをはじめとした覚醒系のスピ本やネット情報には、自分と同じような体験をしている人が何人もいて、それで判明したという塩梅です。

なお原始仏教では「真我」という言い方はしません。が、ここでは便宜的に使っていきます。

ちなみに30年の間、実は誰にも一言も話しをすることなく、ずーっと自分の胸の内に秘めていました。そもそも自分でもどう説明していいかわからなかったからです。

で、自分でもうまく説明できないのに、この状態で第三者に言っても、聞いた相手はいっそう理解不能になるのは、言う前から予測が付きます^^ 
 
これではスピリチュアルで頭がおかしくなった人にしか思われないことは火を見るより明らかです^^そんな危ない橋を渡ることはできません(笑)ですので誰にも言うこと無く30年近く過ごしていました。といいますか、どう説明していいのかわかりませんでした。
 
ちなみに大昔から私のことを知っている人や親しい人にすら一言も言ってきませんでした^^もちろん家族にもです。理解できないだろうと思ったからですね。

もし昔から知っている人達が、この手記を読めばと「はあ?」「うそだろ?」「まさか!」といった具合に疑うんじゃないかと思います。
 
昔から知っている人ほど、信用しないんじゃないかと思います。やはり私の至らないところとかを知っているからですね^^
 
で、こうしたことと関連して、あまり語られることの無い「一瞥体験がもたらす体験の真実」みたいなものがあります。

しかし今では一瞥体験を語ったスピ本も多くなっていますので、そのお陰で、こうして私もお話ししやすくなったと思います。


◆こうした話しをし始めた理由。
唐突に、こういうことを書き始めたために面食らうもいらっしゃるかもしれません^^

が、ワタクシも齢(よわい)50の半ばを過ぎ、今年は親父が亡くなり、ほぼ同じ頃、体力的に年齢を感じることがありましてね。で、「そろそろお話ししてもいいんじゃないかな」と思うようになりまして。

で、年齢を感じたときに、ネットで検索すると助けになる情報が多いんでうsね。惜しみなくコアな情報を発信している方もいらっしゃいます。

こうしたネットの傾向は以前から感じていましたが、ありがたいもんです。特に長年の時間をかけて研鑽し追求してきた成果などを公開している方もいらっしゃいます。すごい施しですよね。

そんな情報発信することの大切さを思いましてね。で、ワタクシも情報発信してみようかな、なんて思い始めています。いえいえ途中で気が変わって非公開にしてしまうかもしれません^^

が、ワタクシ自身の棚卸し的なところもありますね。棚卸しです。整理整頓ですね。そんなこともありますが、この手の話しは役に立つ方には役に立つんじゃないかと思います。


◆真我体験と無我体験(悟り体験)は違う
で、長々と一瞥体験の話しをしましたが、大事なこと。一瞥体験は「自己観察」をしていると起きやすいということです。自己観察、真我探索といった、自己の内面を丁寧に見つめ続けていると起きやすい傾向があります。

仏教(原始仏教)では真我を想定していませんので、ややこしい話しになるのですが、こうしたことはキリスト教神秘主義やアドヴァイタ、ヨーガでは唱えられていることですね。

で、これが仏教(原始仏教)との相異にもなり、またはっきりわかっていないことでもあるようです。

結局、真我と無我(悟り)は違うのではないかと思っています。つまり、

・真我体験・・・意識の拡大・高次元化。エネルギー体験。苦は弱まりこそすれ滅尽しない。
・無我体験・・・認識の変容。記憶が絡まなくなる有り様。苦の滅尽。悟り。

ということではないかと思います。真我体験と無我体験は異なります。

ちなみに真我体験といっても無我を体験します。ですのでここでいう「無我体験」とは正真正銘の悟り体験のことで、真我と対比的な表現をしているだけです。

「無我体験」ということは時々見聞します。アストラル次元の無我もあります。が、これは感覚がマヒしたような無我で、真我がもたらす無我や、悟りの無我とはまったく異なります。真我体験も無我を感じますが、本当の悟り体験の無我は認識する自分が無いといいます。

話しが脱線しましたが、で、何故、原始仏教では真我を取り扱わないかといえば、まず抽象性の高い「真我」という言葉の代わりに、もっと具体的な「禅定」を掲げているのがあるからだと思います。

さらに、真我を超える有り様として「解脱(無我)」の発見。これこそがブッダの本領発揮といいますか、仏教が仏教たる所以となる理由でもあるんじゃないかと思います。

また他の宗教と一線を画し、超越的な立ち位置を取っている所以でもあると思います。仏教の解脱・悟りは、アドヴァイタ、ヨーガとは異なります。だからこそ仏教は他とは違うといった超然とした立ち位置なんじゃないかと思います。

このようなこともありますが、一応、便宜的に「真我」という言葉を使って説明を続けていきます。


◆自己観察と一瞥体験・目覚め体験
自己観察や内省をし続けている人は、一瞥体験をする人が多い傾向にあります。またテーラワーダの観察瞑想をしている方の中にも一瞥体験をしている人もいます。
 
ただ体験者は不用意に公で発言しない傾向があります。なぜ発言しないのかについては、また別の機会に書いてみようかと思います。

で、自己観察は、クリシュナムルティも推奨している方法といいますね。このことも数年前に知ったのですが、自己観察は、実のところ人を変容させる王道であることもわかってきたものです。
 
アドヴァイタでは自己観察とは言わないで「真我探索」といっています。「ネィティ・ネィティ」がそうですです。「それは本当の私(真我)ではない」と観察していくやり方です。


◆自己観察で目覚め体験をしている人は多い
しかし「そんな自分を観続けていて、意識の変容は起きるの?」と、おそらく多くの人は思うんじゃないかと思います。理屈で考えれば???になるのは当たり前ですから^^
 
ところが実際は起き得るわけですね。といいますか自己観察をしている中で意識の変容が起きているケースは多かったりします。だからこそテーラワーダでも推奨しているんだと思います。アドヴァイタでもそうです。クリシュナムルティもそうですね。

実際、日本人でも那智タケシさんとか、富平正文さんらは、クリシュナムルティの「自己観察」やラマナ・マハルシの「私は誰か?」といった自己の観察や探索をして真我にひらけています。
 
一瞥体験をした人の話しを聞いていると、自分の心というのを丁寧に観続けてきていることが、話しの合間合間で見て取ることができます。で、本人が「自己観察」と自覚していなくても、実はちゃんと自己観察、内観をしていることが多かったりします。

で、テーラワーダのバイブル「清浄道論」も、自己観察のマニュアルともいえますからね。「気づき」を通して観察し続けていますので、これも自己観察です。
 
で、この「気づき」によって、テーラワーダの比丘の少なからずの方がブレイクスルーをしています。ルアンポー・ティアン師も心の観察でブレイクスルーしたといいます。


◆心を丁寧に細やかに観察することで開ける
「気づき」は観察する感受力や自覚力を高めるトレーニングでもあります。結局、観察が根底にあることがわかります。自己観察とは「自分の心の観察」ですね。

このように世界各地で観察(自己観察、真我探索)を軸にしているところは多かったりします。ですので実際のところも含めて自己観察をしていると一瞥体験が起きやすいように思います。
 
逆にいえば、一瞥体験をしたい方は、丁寧な自己観察を行うのがおすすめじゃないかと思います。

しかしながら観察をする際には注意することがいくつかあります。それは、

・観察する姿勢(グーっとやらない、根を詰めない)
・無意識の諸々が浮上しても振り回されない(受容、あるがまま)
・自分の嫌な本心や本音に気づいても自己嫌悪に陥らない(受容、あるがまま)
 
ということでして、実のところこの要諦は、ルアンポー・ティアン派で言っている瞑想の仕方の要諦をまったく同じだったりします。
 
ルアンポー・ティアン派の瞑想をおすすめする理由は、安全に観察を続けていくことができるからだったりもします。
 
ちなみにアドヴァイタやキリスト教神秘主義、あるいはスピリチュアルのやり方は、残念ながらこうした安全装置が明確化されていないため、センスがありませんと、大変な状態(暗夜)になってしまうリスクがあるように感じます。


◆似ている一瞥体験
一瞥体験は、人によって、その体験の味わいが違います。私の場合は「那智タケシ」さんという方の体験と大変よく似ています。

ちなみに那智さんは、クリシュナムルティが推奨している「自己観察」を始めたといいます。で、数年後に一瞥体験が起きています。
 
で、那智さんと同じなのが、
①アプローチ(自己観察)の仕方、
②自己観察をしているときに暗夜に陥って鬱々とするようになったこと、
③体験が起きた後の感覚、
これらはまったくといっていいほど同じです。しかし体験前の荒んだ生活や、鳥居みゆきさんとか桜井章一さん云々といった趣味に関しては、まったく違いますので^^
 
那智さんの手記は「悟り系で行こう」にあります。が、この書は軽いイラストの表紙であるためか、あまり評価されていない印象です。が、体験とその後に関して丁寧に描写しています。https://amazon.co.jp/dp/4896342763
 
本の表紙のイラストや、体験前の荒んだ生活、鳥居みゆきさんや桜井章一さんの話しで惑わされていけません(笑)。スピ本にありがちな画一的な表現をしているなんちゃって系とは違います。硬派な内容です。「悟り系で行こう」は一瞥体験を丁寧につづった隠れた名著だったりします。


◆暗夜について
あと自己観察に伴う「暗夜」については、「無師独悟」の別府慎剛氏が参考になります。同書の192ページからは壮絶な暗夜体験が語られています。別府氏は10年以上にわたる暗夜が続いた様子です。https://amazon.co.jp/dp/4938660881
 
暗夜が長かったのは、おそらく禅特有の気風(受容力・慈悲の心が乏しい気風)の中で行ったからじゃないかと思います。観察行においては受容力・慈悲がとても大切なことは、自分の体験やこうした他の人の体験からもわかります。
 
で、ルアンポー・ティアン派の瞑想をイチオシするのは、以前も書きましたが、観察におけるこうした暗夜に陥るのを軽減することができるからですね。

ルアンポー・ティアン派の瞑想は見た目と違って大変精妙な感覚に基づいて作られています。これは体験が根底にあるからだと思っています。


◆玉城康四郎氏の体験
で、一瞥体験は、日常生活の中で突如、訪れることが多かったりします。たとえば東京大学の教授だった玉城康四郎氏は「十地経」を読んでいるときに、身体が木っ端微塵になる感覚をともなう一瞥体験をしています。https://amazon.co.jp/dp/4804320148
 
作家でありキリスト教徒の綱島梁川(つなしま りょうせん)氏も日常生活の中で不意に訪れています。なお綱島梁川氏の体験は、一瞥体験に深浅があることを示す非常に興味深い体験です。


◆平塚らいてうの体験
作家といえば明治の作家でありフェミニストだった「平塚らいてう(らいちょう)」もそうです。20才のときに一瞥体験をしています。平塚らいてうは、その後25才になって「元始、女性は太陽であった」という言葉で知られている青鞜(せいとう)を創刊しますね。
 
平塚らいていの思想の根底には一瞥体験があると思います。現代に多いエゴや観念が源泉になっているフェミニズムではなく、生命の息吹に基づく「女性も男性も違いは無い、生命は全て同じ」という確たる思いから生じているんじゃないかと思います。
 
その強い思いが、当時まだ男尊女卑の強かった風潮に対して風穴を開けようとしたため、ややもすると過激に受け止められたんじゃないかと思います。しかし平塚らいてうの思いは、一瞥体験がもたらす素朴な生命観が源泉にあるんじゃないかと思います。


◆黒住宗忠の体験
ちなみに「太陽」といえば黒住教の教祖・黒住宗忠の「太陽との合一体験」です。黒住宗忠は幕末の人ですが、大病をわずらったものの、ある日の朝、太陽を礼拝していたところ、太陽と合一するという体験をします。で、この体験の後、病気が回復し、しかもヒーリング能力が出てきたという人ですね。
 
黒住宗忠の太陽合一は、綱島梁川氏が二度目に体験したワンネス体験に酷似しています。


◆リチャード・モーリスバックの「宇宙意識」
話しが脱線しましたが^^、一瞥体験と思想の関係や、一瞥体験による意識と通常の意識との関係や構造については、アメリカ人のリチャード・モーリスバックが、その著「宇宙意識」の中で述べています。

で、モーリスバックの説明は、違うんじゃないかと感じるところもありますが、ほぼその通りじゃないかとも思います。https://amazon.co.jp/dp/4931449360
 

◆アジャシャンティとエネルギー体験
で、一瞥体験は人によって浅い深いの違いもあったりします。また意識や能力において変容を引き起こす場合もあります。体験後、何も起きない人もいます。
 
アジャシャンティは、その著「あなたの世界の終わり」の「第8章目覚めのエネルギー的要素」の中で、一瞥体験後に様々な変容が起きることを著しています。

が、残念なことに翻訳者が、その意味がくみ取れていないため、この章の意味がわかりにくくなっています。https://amazon.co.jp/dp/4864510385

一瞥体験のことは話せば長くなりますが、しかしながら私にとっても人生を大きく変えることになったターニングポイントになったことは間違いありません。
 
しかし大事なことは再現性です。どうすればこの恩寵が多くの人に訪れるのか? が、一瞥体験は自己観察によって起きることが多そうということがわかってきたということです。


◆真我体験は悟りではない
真我体験は、悟りではなく、意識の拡大化・高次元化というのが、私の感触です。覚者といわれていいる人のほとんどは真我体験だと思います。

悟りは、真我体験のような「体験を体験する」ことがなく、認知に記憶がストレートに絡まなくなる(絡みにくくなる)という有り様に変容することですね。

両者はまったく異なります。
真我体験では、三結は根絶しません。
無我体験(悟り)だけが、三結の根絶となります。つまり悟り。

真我体験は悟りではありません。

しかし「しあわせ」「苦しみが少なくなる」という点においては、両者はどちらも有益になるかと思います。神の道か解脱の道かという言い方もできるかと思います。



◆まとめ
ということでして、以上は体験に基づいた雑文です。こうしたことは理屈で理解したり推論で検証できる性質ではなく、実践による体験や感性のみによってわかる性質になると思いますが、観察系の瞑想や内観をしていると起きやすいのではないかということです。

結局、悟りとは、悟りの体験がなく、認識の有り様が変わってしまうこと。で、このことは禅に最もよく伝わっています。

アドヴァイタをはじめ欧米に多い覚者の話しや体験は理解できます。が、禅で悟ったという人の話しは理解できません。ここが決定的な違いだと、今は思うようになっています。

が、真我体験も尊く貴重だと思います。高い意識にひらけ、時間の経過とともに能力の拡大が起きる場合もあります。これはこれで有益です。

で、悟りだけでなく、真我に開けることもまた大事じゃないかと。で、この2つを満たしているのがブッダが提唱した道だったんじゃないかと思っています。

真我は、世界の平和や健全な発展に与する性質がありますね。創造性との親和性もあります。これから訪れるAI時代では、AIに対抗できる精神性を生みだす意識になるんじゃないかと予感しています。

文明が高次元化するに従い、人間の意識も必然的に高次元化することが求められるのではないかと。AI時代には、真我に開眼する方法に関心が集まり、新しい自己啓発の潮流となるんじゃないかと予感しています。

で、特に若い人達の間に、その萌芽(下地)が見られることがあって、おそらく将来、自然なかたちで突如、真我に開眼する人達が続々出てくるんじゃないかと、これまた予感しています。

で、AIによる全体主義ではなく、より高い自由な時代へと向かうのではないかと、期待を込めて願っています。

ちなみに日本では、緊縮財政から財政拡大の流れに転換してきているといいますね。なんだか希望もあります。豊かで精神性の高い日本であって欲しいですね。



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